山車紹介
令和6年 奉納山車
那須 与一(なすの よいち)
1185年、屋島の合戦で平家の軍船に掲げられた扇の的を射落とした功により、後に丹波・信濃等5か国に荘園を賜り、那須家の惣領として重きを成したが、そののち出家して「即成院(そうじょういん)」に入り、穏やかに余生を送っていましたが、1189年もしくは1190年、同寺院が創建当初にあった伏見の地にて亡くなりました。
平家物語の章段「扇の的」に登場する武将で弓矢の名手として知られ、源平合戦の時代、香川県高松市の屋島で平家方が差しだした扇の的を見事射ぬいたという弓の名人であった。
大門区
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)
45年前に当時の大門協会が自主制作を始めてから16期目の山車人形となります。毎回、大門協会(青年会)、婦人会が中心となる有志の集まりで制作奉納してきました。
今年の山車人形は「石川五右衛門」です。五右衛門は日本の江戸時代に実在した有名な忍者の一人です。五右衛門の伝説や物語を表現していくことが悩みどころでしたが、五右衛門の機知や勇敢さを表現できるよう制作しました。
また大門区は、拡声器を使用しない、昔ながらの山車巡行を行っています。練習を重ねた囃子方の子どもたちと、祭り大好き大門区が一丸となり、三国祭を盛り上げていきます。
下西区
柴田 勝家(しばた かついえ)
また、武勇に優れているだけでなく、城下町の建設や絹織物などの産業振興といった、今日までに続く福井繁栄の礎を築き、治政においても秀でた手腕を発揮していました。
辰年にふさわしい龍の描かれた鎧をまとい、槍を携え、刀を構える勇猛果敢な姿の柴田勝家を奉納いたします。
なお、当区の山車屋台は天保4年に制作され191年を経過しており、三国山車の最も古い形といわれています。
前面の龍の彫り物は、志摩乗時作、左右と後方は二男美時作で、安政4~5年作で166年の経過、また、鯉の刺繍が施された水引は、弘化3年作で178年を経過しており、いずれも坂井市有形文化財に指定されております。あわせてお楽しみください。
三国祭保存振興会
狐 忠信(きつね ただのぶ)
今年奉納する山車人形は、歌舞伎「義経千本桜」に登場する人物。子狐の化身で鼓(初音の鼓)の皮になった親を慕い、佐藤忠信の姿になって現れ、その鼓を持つ静御前が鼓を打ち鳴らすと狐忠信となって現れる場面を表しました。
今年も三国祭保存振興会青年部が中心となり、19日、宵山車を巡行いたします。
竪・上横区
武田 信玄(たけだ しんげん)
現在の山車屋台は大正10年(1921年)に井田一洞斎によって制作されたものと記されており、四の部10町内(区)で共有し、5年に一度の当番で本年は竪・上横区が奉納します。
「人は城 人は石垣 人は堀」
人形師は岩堀雄樹の手掛ける戦国武将 武田信玄の名言に倣い、両区民一丸となり誇りをもって巡行いたします。囃子方の子どもたちは、本番に向けて3月より練習を重ねて参りました。賑やかしきこと花の如し!
南末広区
雑賀 孫市(さいか まごいち)
紀伊国(現在の和歌山市)の地侍集団「雑賀衆」の棟梁で伝説の鉄砲つかいと呼ばれ、雑賀の地を守るために戦い続けたのが「雑賀孫市」です。織田信長と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との10年に及ぶ「石山合戦」では、石山本願寺の求めに応じ、鉄砲を使った先進的な戦術で、大いに織田信長を苦しめ、その後、羽柴秀吉も雑賀衆には手を焼いたと伝えられています。
今回の山車人形は、石山合戦で織田信長に狙いを定め、今にも銃口から鉛玉が飛び出しそうな迫力ある姿を製作し、奉納させていただきます。
令和5年度 奉納山車
新選組 吉村貫一郎(しんせんぐみ よしむらかんいちろう)
幕末の京にあって「新選組」に南部藩随一の文武両道の土といわれた吉村貫一郎がいた。その男は恐ろしく腕が立つが、他の隊士と違って自分の命と金に異常なまでに執着する。その理由は、南部に残した愛する家族に仕送りを続けるために生きる。それが彼の何よりも大切な目的であった。
幕末の動乱の中、新選組は時流に翻弄され、鳥羽伏見の戦いの後は衰勢の一途をたどる。満身創痍の貫一郎は、家族のために生きるべきか、新選組への義を貫くべきか、悩みながらも理不尽ながら死を覚悟の刃をかざし、鉄砲玉の嵐の中、突き進まんとする姿を山車人形に表現した。
中元区
勧進帳 安宅の関 富樫左衛門尉(かんじんちょう あたかのせき とがしさえもんのじょう)
屋台の塗りは高蒔絵や螺鈿細工が施され、初代一洞斎の技術の粋が伺われます。水引き幕は表地が白羅紗に吉祥の図柄として、鳳凰・龍・麒麟・雌雄の蓑亀に三匹の子亀が金糸や銀糸の箔糸でオランダ繍・駒繍・刺繍や綿肉を駆使して立体感を巧みに表わしていて、下部には金糸で青海波の文様が施されています。裏地は橙地唐花に龍丸鳳凰文様の金襽で表地と袷仕立てにして、四方は茶地市松文様の銀襽による覆輪仕立てとなっています。
本年の山車人形は、令和2年度の武蔵坊弁慶『飛び六方』の奉納に続いて、人形師の岩堀氏(四代目)製作による、安宅の関『富樫左衛門尉』を奉納します。
また囃子方の6名の子供たちが、元気あふれる掛け声と力強いバチさばきを披露しますのでご声援お願いします。
三国祭保存振興会
釣鐘弁慶(つりがねべんけい)
今年制作した山車人形は、武蔵坊弁慶。牛若丸と弁慶で有名な平安時代の僧衆です。
その昔、三井寺が延暦寺と争った際、比叡山の荒法師弁慶が三井寺の梵鐘を奪い、一人で比叡山の山上まで引き摺り上げたそうです。そして、その鐘をついてみると「いのー、いの一」(関西弁で「帰りたい」の意味)と響いたので、「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったと伝えられています。
今回は三井寺の絵馬に描かれている、弁慶が鐘を背負って比叡山を登っている姿を再現した山車人形を制作し、奉納いたします。
また、今年も三国祭保存振興会青年部会を中心とした宵山車を19日に巡行いたします。
上西区
猩々(しょうじょう)
水引幕は唐獅が群れ遊ぶ様子を金糸で刺繍しています。山車屋台は明治6年(1873年)に補修し、玉眼や螺鈿を施した虎や登竜の蒔絵等は三国工芸の粋を感じさせてくれます。
桜町区
永代櫻(えいたいざくら)
安永3年(1774年)木場町と今町も、恒例の永代桜ではなく、武者人形を乗せた山車を奉納したところ、10月の宵宮に木場町をはじめ上八町一帯を焼き尽くす大火が起こり、これは火伏せの願いを込めて永代桜を奉納した初心を忘れたことへの神罰とおそれ、以後現在まで、山車番には「永代櫻」を奉納するようになりました。
山車番以外の年は桜花の枝を区民が作って、神前に奉納し、鎮火のお守りとして各戸に配布しています。
令和4年度 奉納山車
森町区
上杉謙信(うえすぎけんしん)
森町区は三國港の総鎮守である山王宮(現三國神社)の門前町として反映し、山王森町とも呼ばれた区です。また、明治に入るまでは、今の三国祭は山王祭(さんのうまつり)と呼ばれておりました。
この森町区では、伝統ある「お囃子」を青年会が継承し、苗と三味線を青年会、太鼓を子供会が担当して、3年に一度の山車奉納を行います。
今年の山車は、「上杉謙信」です。越後の国を統一した戦国武将、戦国時代で屈指の「戦い上手」で、「軍神」や「越後の龍」などと称され、特に、宿敵「武田信玄」との5回にわたる「川中島の戦い」は有名です。その戦いの中でも「謙信」と「信玄」が一騎討ちをした「第四次中島の戦い」での謙信の勇姿を、若き人形師「岩堀雄樹」氏が制作しました。
憎き「新型コロナウイルス」を成敗するため、令和4年の三国祭の山車巡行の先陣(壱番山車)を飾ります。
玉井区
浅井長政(あざいながまさ)
平成18年に当時の玉井区の役員の方々が、翌年の山車当番には、越前に馴染みの深い「朝倉義景」を奉納しようと決められ、その時に「朝倉義景」を3回。そして同盟関係にあった「浅井長政」を3回続けて奉納することも決められました。
平成19年に初めて「朝倉義景」を奉納した際に、「朝倉氏遺跡保存協会」の方々も武士の姿で山車巡業に同行してくださることになり、前回までご協力を戴きました。
平成28年に「浅井長政:金ヶ崎の戦い」を奉納し、以後令和元年に「姉川の戦い」、今回は、織田信長軍に敗れ自害した「小谷城の戦い」をテーマにしており、朝倉・浅井シリーズも今回で最後となります。
三国祭保存振興会
伊達政宗(だてまさむね)
今年の山車人形「伊達政宗」は、安土桃山時代から江戸時代期にかけて活躍した武将であり、東北を平定して仙台藩を開いた人物です。
政宗は、幼少期に天然痘といいう、伝染力が非常に強く死に至る疾病を患ってしまいます。政宗の場合は、幸い一命を取り止めましたが、顔に瘢痕(はんこん)が残り、右目を失明してしまいました。その見た目から「独眼竜政宗」と呼ばれることになります。
今年、保存振興会では青年部会をつくり、三国祭初の宵山車を巡行(初陣)いたします。
滝本区
柴田勝家(しばたかついえ)
勝家が夢描いた繁栄の地、私たちの故郷がますます発展することを祈願し、堂々たる柴田勝家の姿を再現し、奉納いたします。
なお、現在の山車(屋台)は、大正10年(1921)井田一洞斎によって制作されたものと記されて、四の部十町内(区)で共有しています。
下新区
北条義時(ほうじょうよしとき)
また、今回の奉納山車である、北条義時公は、現在NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、小栗旬演じる鎌倉時代初期の武士で、父親の北条時政、姉の北条政子とともに源氏を助けながら鎌倉幕府の屋台骨を築き、頼朝亡き後に鎌倉幕府の実権を握った。その後、父時政を排除し執権としての地位を確固たるものとした。時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず勝ち馬にすることができる実力と強い意志があったと思われます。
元新町
「暫」鎌倉権五郎景正(しばらく かまくらごんごろうかげまさ)
現在の屋台は、骨格部分が文政12年(1892年)に製作されたもので、その特徴は中国風の赤い高欄は、万延元年(1860年)志摩吉三郎(鴻斉)の作で、塗師は初代の井田一洞斎です。水引幕は、明治24年(1891年)に製作された綴織です。
今回の山車人形は、歌舞伎の「暫」鎌倉権五郎景正です。十二代の市川團十郎が演じたもので、武家の礼装で大きな家紋を表した大紋の袖を製作しました。昨年、日本で開催された五輪の開会式で披露されました。
人形製作は「山車の会」です。
令和3年度 奉納山車
四日市区
脇屋義助(わきやよしすけ)
35年(建武2)12月、足利尊氏が建武政府に反するや、義貞とともに足柄山で足利軍と戦う。 箱根・竹ノ下の合戦で敗れ、京都へ敗走した。
翌36年(延元1/建武3)5月、鎮西より東上する足利軍を兵庫(神戸市兵庫区)に防がん としたが失敗。同年10月、恒良親王、尊良親王を奉じて、義貞とともに北陸に向かい、越前金ヶ崎城(敦賀市)に入った。
38年(延元3/暦応1)7月、義貞が戦死したのちも越前各地の南軍を率いて奮戦した。美濃、尾張に転戦ののち、一時吉野に帰り、刑部卿に任ぜられた。
40年(興国1/暦応3)伊予に赴き、国司四条有資(しじょうありすけ)を助けて北軍と戦い勢力を振るったが、42年(興国3/康永1)5月、 伊予国府にて病死。 (42歳)墓は愛媛県今治市 国分にある。
大門区
猪八戒(ちょはっかい)
今年の山車人形は、「猪八戒」です。あまり今までに題材にされたことが少ない山車人形への挑戦になります。最遊記では脇役ですが、どのように主人公のような山車人形に表現していくのかが悩みどころでした。いかにも強そうで逞しい図体、ただの豚には見えない貫録を目指して制作しました。
また大門区は、拡声器を使用しない、昔ながらの山車巡行を行っています。練習を重ねた囃子方の子どもたちと、祭り大好き大門区が一丸となり、三国祭を盛り上げていきます。
上ハ町区
山田 武甫(やまだ たけとし)
三國港は広大な流域を持つ九頭竜川の河口ですので、川底の土砂堆積により幾度も機能不全に陥り、それが最も悲惨な状況の時でした。
それまでも浚渫(土砂排斥)の為、懸命な方策が取られてきましたが、突堤の建設という画期的な方法への道を開き、完成に繋げたのです。在籍は一年半でしたが、内田家、森田家などの豪商や港民への示唆、国家機関との交渉、エッセル、デ・レーケの招聘など、山田でなかれば、成しえなかったと考えられます。
永正寺に足跡を残す師の小楠からも、三國の重要性と状況を伝授されていた事でしょう。 突堤完成以来140年、この町が存在する礎である港の機能は盤石です。大いなる恩人を、山車にて顕彰させて頂きます。
滝谷区
源 義経(みなもとの よしつね)
山車展示のみ
源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で鞍馬寺に預けられるが、後に平泉に下り、奥州藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が治承・寿永の乱で平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、平氏との戦いでの独断専行により怒りを買い、全国に捕縛の命が伝わると、難を逃れて藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町で自刃した。
令和2年度 奉納山車
令和2年度奉納山車のご紹介です。
岩崎区
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
山車人形は、昭和56年に初めて区民の手で制作して以降、自主制作を続けています。
14作目の今年は「本多忠勝(本多平八郎忠勝)」です。徳川家康に仕え、徳川四天王のひとりで、家康と共に天下統一を成し遂げた人物です。忠勝の使用した愛槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれ、穂先に止まったとんぼを真っ二つにしたという逸話があり、柄の長さが6mあったとされています。また、戦には57回出陣して、かすり傷一つ負わず、「ただ勝つのみ」との願いで「忠勝」と名付けられた名前は、三国祭の一番山車にはうってつけの武将だと思い、祭りの先陣を切り進みます。
中元区
勧進帳(かんじんちょう)
中元区の屋台は、慶應3年(1867)に棟梁 西川安右ヱ門、塗師 井田一洞斎により、制作されたもので、幕末から明治初期の三国の工芸技術の特徴を示しています。屋台の塗りは高蒔絵や螺鈿細工が施され、初代一洞斎の技術の粋が伺われます。水引幕は、表地が白羅紗に、吉祥の図柄として鳳凰・龍・麒麟(阿形と吽形)・雌雄の蓑亀に3匹の子亀が金糸や銀糸の箔糸で、オランダ繍・駒繍・刺繍・わた肉を駆使して立体感を巧みに表現しています。また、水引幕の下部には金糸で青海波の文様が施されています。裏地は橙地唐花に龍丸鳳凰文様の金襽で、表地と袷仕立てにして、四方は茶地市松文様の銀襽による覆輪仕立てとなっています。
今回の奉納山車人形は、歌舞伎十八番で有名な「勧進帳」弁慶の飛び六方です。勧進帳は平成2年以来、30年ぶり2回目の奉納となります。
また、練習を重ねた6名の子供たちが元気あふれる掛け声と力強いバチさばきを披露しますので、ご声援お願いします。
真砂区
太閤 豊臣秀吉(たいこう とよとみひでよし)
5年ぶりの山車当番区で、山車人形には戦国一の出世頭「太閤 豊臣秀吉」を選び、三国祭保存振興会山車の会に制作を依頼しました。秀吉はご承知のように農民から侍となり木下藤吉郎と改名、武功をあげ織田信長に仕えました。信長の本能寺での死後、明智光秀や柴田勝家との争いに勝ち一気に天下人まで上り詰めました。太閤殿下の勇ましい姿をじっくりとお楽しみください。
みくに龍翔館発行の「三国の曳き山車まつり展」によると明治31年に真砂区として初めて奉納した山車人形が「木下藤吉郎 稲葉山に於いて」と記録されています。秀吉はいわば、区として122年ぶりの登場となります。
屋台は大正10年井田一洞斎によって制作されたといわれ、四の部の10区が共有しています。今年も、囃子方とともに上真砂・下真砂区民一丸になって、山車巡行の思い出をつくろうと張り切っています。
下錦区
風林火山 武田信玄(ふうりんかざん たけだしんげん)
武田信玄は、甲斐本国統一を達成し、隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる川中島の戦で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した武将です。
武田軍と上杉軍の強さは天下一であると噂されることとなった、川中島の戦。その一連の対決の中でも最大規模といわれている第四次合戦で、茶臼山に陣取る「武田 信玄」を再現させて頂きました。
下錦区内の山車巡行では、えちぜん鉄道の踏切を渡るところがありますが、山車人形には一工夫、二工夫と知恵を絞った工夫がされてあり、他の奉納山車では見られない仕掛けの見どころもありますので、是非ともご覧ください。