山車紹介

令和5年度 奉納山車

壱番山車

新選組 吉村貫一郎
岩崎区
新選組 吉村貫一郎(しんせんぐみ よしむらかんいちろう)
愛する者のために涙を切り、人を切る。吉村貫一郎を評した言葉である。
幕末の京にあって「新選組」に南部藩随一の文武両道の土といわれた吉村貫一郎がいた。その男は恐ろしく腕が立つが、他の隊士と違って自分の命と金に異常なまでに執着する。その理由は、南部に残した愛する家族に仕送りを続けるために生きる。それが彼の何よりも大切な目的であった。
幕末の動乱の中、新選組は時流に翻弄され、鳥羽伏見の戦いの後は衰勢の一途をたどる。満身創痍の貫一郎は、家族のために生きるべきか、新選組への義を貫くべきか、悩みながらも理不尽ながら死を覚悟の刃をかざし、鉄砲玉の嵐の中、突き進まんとする姿を山車人形に表現した。

弍番山車

勧進帳 安宅の関 富樫左衛門尉

中元区
勧進帳 安宅の関 富樫左衛門尉(かんじんちょう あたかのせき とがしさえもんのじょう)

中元区の屋台は、慶應3年(1867年)に棟梁西川安右ヱ門、塗師井田一洞斎により、製作されたもので、幕末から明治初期の三国の工芸技術の特徴を示しています。
屋台の塗りは高蒔絵や螺鈿細工が施され、初代一洞斎の技術の粋が伺われます。水引き幕は表地が白羅紗に吉祥の図柄として、鳳凰・龍・麒麟・雌雄の蓑亀に三匹の子亀が金糸や銀糸の箔糸でオランダ繍・駒繍・刺繍や綿肉を駆使して立体感を巧みに表わしていて、下部には金糸で青海波の文様が施されています。裏地は橙地唐花に龍丸鳳凰文様の金襽で表地と袷仕立てにして、四方は茶地市松文様の銀襽による覆輪仕立てとなっています。
本年の山車人形は、令和2年度の武蔵坊弁慶『飛び六方』の奉納に続いて、人形師の岩堀氏(四代目)製作による、安宅の関『富樫左衛門尉』を奉納します。
また囃子方の6名の子供たちが、元気あふれる掛け声と力強いバチさばきを披露しますのでご声援お願いします。

参番山車

釣鐘弁慶

三国祭保存振興会
釣鐘弁慶(つりがねべんけい)

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく坂井市の三国祭として継承していく活動を行っています。また、山車人形制作の後継者を育成する活動も行っています。
今年制作した山車人形は、武蔵坊弁慶。牛若丸と弁慶で有名な平安時代の僧衆です。
その昔、三井寺が延暦寺と争った際、比叡山の荒法師弁慶が三井寺の梵鐘を奪い、一人で比叡山の山上まで引き摺り上げたそうです。そして、その鐘をついてみると「いのー、いの一」(関西弁で「帰りたい」の意味)と響いたので、「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったと伝えられています。
今回は三井寺の絵馬に描かれている、弁慶が鐘を背負って比叡山を登っている姿を再現した山車人形を制作し、奉納いたします。
また、今年も三国祭保存振興会青年部会を中心とした宵山車を19日に巡行いたします。

四番山車

猩々

上西区
猩々(しょうじょう)

今回の山車人形は、能で演じられる架空の生物「猩々(しょうじょう)」を奉納します。猩々は、中国揚子江の底に住む酒好きの妖精です。酒売りの主人公の客として川の中から現れると、酔って浮かれつつ無邪気に舞い、呑めども尽きぬ酒壺を授けて去っていきました。盃を片手に華やかな衣装を纏う勇壮な場面を再現しました。当区の水引幕と山車屋台は天保4年(1833年)で、約200年の歴史があります。
水引幕は唐獅が群れ遊ぶ様子を金糸で刺繍しています。山車屋台は明治6年(1873年)に補修し、玉眼や螺鈿を施した虎や登竜の蒔絵等は三国工芸の粋を感じさせてくれます。

五番山車

永代櫻

桜町区
永代櫻(えいたいざくら)

宝暦3年(1753年)当時の木場町と今町では、三國神社の社地桜谷の桜にちなみ、永代桜を飾った山車を曳きだしました。これが飾り山車の奉納の初めといわれています。この後、趣向を凝らした武者人形を飾ることが主流になってきました。
安永3年(1774年)木場町と今町も、恒例の永代桜ではなく、武者人形を乗せた山車を奉納したところ、10月の宵宮に木場町をはじめ上八町一帯を焼き尽くす大火が起こり、これは火伏せの願いを込めて永代桜を奉納した初心を忘れたことへの神罰とおそれ、以後現在まで、山車番には「永代櫻」を奉納するようになりました。
山車番以外の年は桜花の枝を区民が作って、神前に奉納し、鎮火のお守りとして各戸に配布しています。

六番山車

加藤 清正

橋本区
加藤 清正(かとうきよまさ)

加藤清正は豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳七本槍の一人。日本三名城の一つに数えられる熊本城を築いたことでも有名な武将。平成28年の熊本地震により大きな夜害にあった熊本城の、一日でも早い復興・復元を願っています。
今回で山車人形の自主制作は4回目となり、町内有志、青年団、ご婦人方の協力で制作いたしました。
屋台は大正10年(1921年)に井田一洞斎によって制作されたと言い伝えられていて、四之部の十区で共有し、5年に1回の当番で、本年は橋本区が担当し奉納いたします。

令和4年度 奉納山車

壱番山車

上杉謙信

森町区
上杉謙信(うえすぎけんしん)

森町区は三國港の総鎮守である山王宮(現三國神社)の門前町として反映し、山王森町とも呼ばれた区です。また、明治に入るまでは、今の三国祭は山王祭(さんのうまつり)と呼ばれておりました。
この森町区では、伝統ある「お囃子」を青年会が継承し、苗と三味線を青年会、太鼓を子供会が担当して、3年に一度の山車奉納を行います。
今年の山車は、「上杉謙信」です。越後の国を統一した戦国武将、戦国時代で屈指の「戦い上手」で、「軍神」や「越後の龍」などと称され、特に、宿敵「武田信玄」との5回にわたる「川中島の戦い」は有名です。その戦いの中でも「謙信」と「信玄」が一騎討ちをした「第四次中島の戦い」での謙信の勇姿を、若き人形師「岩堀雄樹」氏が制作しました。
憎き「新型コロナウイルス」を成敗するため、令和4年の三国祭の山車巡行の先陣(壱番山車)を飾ります。

弍番山車

浅井長政

玉井区
浅井長政(あざいながまさ)

平成18年に当時の玉井区の役員の方々が、翌年の山車当番には、越前に馴染みの深い「朝倉義景」を奉納しようと決められ、その時に「朝倉義景」を3回。そして同盟関係にあった「浅井長政」を3回続けて奉納することも決められました。
平成19年に初めて「朝倉義景」を奉納した際に、「朝倉氏遺跡保存協会」の方々も武士の姿で山車巡業に同行してくださることになり、前回までご協力を戴きました。
平成28年に「浅井長政:金ヶ崎の戦い」を奉納し、以後令和元年に「姉川の戦い」、今回は、織田信長軍に敗れ自害した「小谷城の戦い」をテーマにしており、朝倉・浅井シリーズも今回で最後となります。

参番山車

伊達政宗

三国祭保存振興会
伊達政宗(だてまさむね)

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく坂井市の三国祭として継承していく活動を行なっています。
今年の山車人形「伊達政宗」は、安土桃山時代から江戸時代期にかけて活躍した武将であり、東北を平定して仙台藩を開いた人物です。
政宗は、幼少期に天然痘といいう、伝染力が非常に強く死に至る疾病を患ってしまいます。政宗の場合は、幸い一命を取り止めましたが、顔に瘢痕(はんこん)が残り、右目を失明してしまいました。その見た目から「独眼竜政宗」と呼ばれることになります。
今年、保存振興会では青年部会をつくり、三国祭初の宵山車を巡行(初陣)いたします。

四番山車

柴田勝家

滝本区
柴田勝家(しばたかついえ)

「夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」と辞世の句を残した勝家。その名は今もなお語り継がれています。「鬼柴田」の異名をもち、猛将として畏怖された勝家は、治政に長けた智将でもありました。勝家が築いた北庄城は、たいへん大きく立派であったと伝わり、城主として、後の礎となる民主の安定や産業振興に積極的に取り組みました。壮絶な最後は、誇り高き武将であった証でしょう。
勝家が夢描いた繁栄の地、私たちの故郷がますます発展することを祈願し、堂々たる柴田勝家の姿を再現し、奉納いたします。
なお、現在の山車(屋台)は、大正10年(1921)井田一洞斎によって制作されたものと記されて、四の部十町内(区)で共有しています。

五番山車

北条義時

下新区
北条義時(ほうじょうよしとき)

下新町は元新町と並び、川沿いには廻船問屋の土蔵が並び、海運業に携わる職業者の多い町となり、江戸中期頃には内田邸、津田邸等の豪商が軒を連ねた事からも、当時商業の中心地を成していたと思われる。
また、今回の奉納山車である、北条義時公は、現在NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、小栗旬演じる鎌倉時代初期の武士で、父親の北条時政、姉の北条政子とともに源氏を助けながら鎌倉幕府の屋台骨を築き、頼朝亡き後に鎌倉幕府の実権を握った。その後、父時政を排除し執権としての地位を確固たるものとした。時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず勝ち馬にすることができる実力と強い意志があったと思われます。

六番山車

「暫」鎌倉権五郎景正

元新町
「暫」鎌倉権五郎景正(しばらく かまくらごんごろうかげまさ)

現在の屋台は、骨格部分が文政12年(1892年)に製作されたもので、その特徴は中国風の赤い高欄は、万延元年(1860年)志摩吉三郎(鴻斉)の作で、塗師は初代の井田一洞斎です。水引幕は、明治24年(1891年)に製作された綴織です。
今回の山車人形は、歌舞伎の「暫」鎌倉権五郎景正です。十二代の市川團十郎が演じたもので、武家の礼装で大きな家紋を表した大紋の袖を製作しました。昨年、日本で開催された五輪の開会式で披露されました。
人形製作は「山車の会」です。

七番山車

真柄十郎左衛門

旭区
真柄十郎左衛門(まがら じゅうろうざえもん)
直隆(なおたか)・隆基(たかもと)父子

真柄十郎左衛門直隆と嫡男隆基は朝倉氏に仕えた戦国武将で、現在の越前市真柄町に住居を構えていた。
十郎左衛門は巨漢で長さ約3メートルの日本一長い大太刀の使い手として知られ数々の戦で名を挙げた。息子の十郎三郎も長さ2メートル以上の大太刀を使い、1570年に「朝倉・浅井連合軍」と「織田・徳川連合軍」が死闘を交えた「姉川の戦い」では親子で出陣し、敵を蹴散らしたといわれる。福井市の朝倉遺跡でも真柄親子の活躍ぶりを紹介、模造刀も展示されている。

令和3年度 奉納山車

壱番山車

脇屋義助

四日市区
脇屋義助(わきやよしすけ)

鎌倉・南北朝時代の武将。新田義貞の実弟。 朝氏の子。新田荘脇屋(群馬県太田市)に住み、 脇屋次郎と称す。右衛門佐、刑部卿。元弘3/正慶2(1333)年、兄義貞と共に鎌倉の北条氏を攻め、鎌倉幕府を倒す。その功により、建武政府から武者所、寄人、越前守護に任ぜられた。
35年(建武2)12月、足利尊氏が建武政府に反するや、義貞とともに足柄山で足利軍と戦う。 箱根・竹ノ下の合戦で敗れ、京都へ敗走した。
翌36年(延元1/建武3)5月、鎮西より東上する足利軍を兵庫(神戸市兵庫区)に防がん
としたが失敗。同年10月、恒良親王、尊良親王を奉じて、義貞とともに北陸に向かい、越前金ヶ崎城(敦賀市)に入った。
38年(延元3/暦応1)7月、義貞が戦死したのちも越前各地の南軍を率いて奮戦した。美濃、尾張に転戦ののち、一時吉野に帰り、刑部卿に任ぜられた。
40年(興国1/暦応3)伊予に赴き、国司四条有資(しじょうありすけ)を助けて北軍と戦い勢力を振るったが、42年(興国3/康永1)5月、 伊予国府にて病死。 (42歳)墓は愛媛県今治市 国分にある。

弐番山車

猪八戒

大門区
猪八戒(ちょはっかい)

3年周期で廻ってくる山車当番。42年前に当時の大門協会が自主制作を始めてから15基目の山車人形となります。毎回、大門協会(青年会)、婦人会が中心となる有志の集まりで制作奉納してきました。
今年の山車人形は、「猪八戒」です。あまり今までに題材にされたことが少ない山車人形への挑戦になります。最遊記では脇役ですが、どのように主人公のような山車人形に表現していくのかが悩みどころでした。いかにも強そうで逞しい図体、ただの豚には見えない貫録を目指して制作しました。
また大門区は、拡声器を使用しない、昔ながらの山車巡行を行っています。練習を重ねた囃子方の子どもたちと、祭り大好き大門区が一丸となり、三国祭を盛り上げていきます。

参番山車

今川義元と毛利新介

三国祭保存振興会
桶狭間の戦い「今川義元と毛利新介」

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく坂井市の三国祭として継承していく活動を行っています。
尾張の小大名だった織田信長が、その名を天下に初めて轟かせた「桶狭間の戦い」。駿河・遠江・三河の太守であった今川義元が討ち取られた、戦国の大転換点となった戦です。
今年の山車は、この戦において信長の精鋭部隊である馬廻に選ばれた毛利新介が、みごと今川義元の首を討ち取る場面を表しました。
今年はコロナ終息を願い、神輿と共に粛々と 巡行したいと思います。

四番山車

山田 武甫

上ハ町区
山田 武甫(やまだ たけとし)

熊本藩出身で、横井小楠(春嶽に請われ福井藩政治顧問、明治新政府参与)の高弟の一人と言われ、明治8年、内務省から敦賀県権令(現福井県知事)に着任しました。
三國港は広大な流域を持つ九頭竜川の河口ですので、川底の土砂堆積により幾度も機能不全に陥り、それが最も悲惨な状況の時でした。
それまでも浚渫(土砂排斥)の為、懸命な方策が取られてきましたが、突堤の建設という画期的な方法への道を開き、完成に繋げたのです。在籍は一年半でしたが、内田家、森田家などの豪商や港民への示唆、国家機関との交渉、エッセル、デ・レーケの招聘など、山田でなかれば、成しえなかったと考えられます。
永正寺に足跡を残す師の小楠からも、三國の重要性と状況を伝授されていた事でしょう。 突堤完成以来140年、この町が存在する礎である港の機能は盤石です。大いなる恩人を、山車にて顕彰させて頂きます。

五番山車

源 義経

滝谷区
源 義経(みなもとの よしつね)
山車展示のみ

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で鞍馬寺に預けられるが、後に平泉に下り、奥州藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が治承・寿永の乱で平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、平氏との戦いでの独断専行により怒りを買い、全国に捕縛の命が伝わると、難を逃れて藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町で自刃した。

令和2年度 奉納山車

令和2年度奉納山車のご紹介です。

壱番山車

岩崎区
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)

現在の山車屋台は、明治30年に白木造りで作られたもので、今年で120年以上経過しています。また、水引幕は、昭和56年に丹後ちりめんの白生地に、当時京都在住の動物画の大家(特に猿の絵が得意)である今尾画伯が直筆したものです。
山車人形は、昭和56年に初めて区民の手で制作して以降、自主制作を続けています。
14作目の今年は「本多忠勝(本多平八郎忠勝)」です。徳川家康に仕え、徳川四天王のひとりで、家康と共に天下統一を成し遂げた人物です。忠勝の使用した愛槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれ、穂先に止まったとんぼを真っ二つにしたという逸話があり、柄の長さが6mあったとされています。また、戦には57回出陣して、かすり傷一つ負わず、「ただ勝つのみ」との願いで「忠勝」と名付けられた名前は、三国祭の一番山車にはうってつけの武将だと思い、祭りの先陣を切り進みます。

弐番山車

中元区
勧進帳(かんじんちょう)

中元区の屋台は、慶應3年(1867)に棟梁 西川安右ヱ門、塗師 井田一洞斎により、制作されたもので、幕末から明治初期の三国の工芸技術の特徴を示しています。屋台の塗りは高蒔絵や螺鈿細工が施され、初代一洞斎の技術の粋が伺われます。水引幕は、表地が白羅紗に、吉祥の図柄として鳳凰・龍・麒麟(阿形と吽形)・雌雄の蓑亀に3匹の子亀が金糸や銀糸の箔糸で、オランダ繍・駒繍・刺繍・わた肉を駆使して立体感を巧みに表現しています。また、水引幕の下部には金糸で青海波の文様が施されています。裏地は橙地唐花に龍丸鳳凰文様の金襽で、表地と袷仕立てにして、四方は茶地市松文様の銀襽による覆輪仕立てとなっています。
今回の奉納山車人形は、歌舞伎十八番で有名な「勧進帳」弁慶の飛び六方です。勧進帳は平成2年以来、30年ぶり2回目の奉納となります。
また、練習を重ねた6名の子供たちが元気あふれる掛け声と力強いバチさばきを披露しますので、ご声援お願いします。

参番山車

三国祭保存振興会

明智光秀(あけちみつひで)「敵は本能寺にあり」

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく、坂井市全体の三国祭として継承していく活動を行っています。
明智光秀は、美濃(岐阜県)を追われた後、越前(福井県)の朝倉義景を頼って一乗谷に身を寄せ、坂井市長崎にある「称念寺」の門前に10年くらい住んでいたとされ、三国湊や雄島などにもゆかりのある武将です。
山車人形は「敵は本能寺にあり」 主君織田信長を自害させた馬上の明智光秀です。

四番山車

真砂区
太閤 豊臣秀吉(たいこう とよとみひでよし)

5年ぶりの山車当番区で、山車人形には戦国一の出世頭「太閤 豊臣秀吉」を選び、三国祭保存振興会山車の会に制作を依頼しました。秀吉はご承知のように農民から侍となり木下藤吉郎と改名、武功をあげ織田信長に仕えました。信長の本能寺での死後、明智光秀や柴田勝家との争いに勝ち一気に天下人まで上り詰めました。太閤殿下の勇ましい姿をじっくりとお楽しみください。
 みくに龍翔館発行の「三国の曳き山車まつり展」によると明治31年に真砂区として初めて奉納した山車人形が「木下藤吉郎 稲葉山に於いて」と記録されています。秀吉はいわば、区として122年ぶりの登場となります。
 屋台は大正10年井田一洞斎によって制作されたといわれ、四の部の10区が共有しています。今年も、囃子方とともに上真砂・下真砂区民一丸になって、山車巡行の思い出をつくろうと張り切っています。

五番山車

下錦区
風林火山 武田信玄(ふうりんかざん たけだしんげん)

当区8年ぶりに奉納する山車人形は、当区が44年前の昭和51年(1976)に奉納しました「川中島の戦 武田信玄・上杉謙信」の一人 戦国武将 甲斐の戦国大名 武田家第19代当主「武田 信玄」を一つ山車で奉納いたします。
武田信玄は、甲斐本国統一を達成し、隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる川中島の戦で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した武将です。
武田軍と上杉軍の強さは天下一であると噂されることとなった、川中島の戦。その一連の対決の中でも最大規模といわれている第四次合戦で、茶臼山に陣取る「武田 信玄」を再現させて頂きました。
下錦区内の山車巡行では、えちぜん鉄道の踏切を渡るところがありますが、山車人形には一工夫、二工夫と知恵を絞った工夫がされてあり、他の奉納山車では見られない仕掛けの見どころもありますので、是非ともご覧ください。

六番山車

松ケ下区
暫(しばらく)
松ケ下区の山車屋台は、慶応3年(1867年)三国の名工志摩鴻斉の作で、上部組物が紫檀で作られている。欄干部は黒檀で作られ、全体に均整のとれた山車屋台となっている。江戸後期から明治にかけて、三国湊を代表する松ケ下区の豪商たちが資金を出し合い作られた山車屋台である。昭和43年7月20日、三国町文化財に指定された。
150年もの年月が経って編み糸が劣化したため、水引幕を当時のまま復元した。今年が初の水引のお披露目巡行になる。
本年の人形は、歌舞伎より「暫(しばらく)」を奉納する。