山車紹介

令和三年度 奉納山車

山車の写真は後日掲載

壱番山車

脇屋義助

四日市区
脇屋義助(わきやよしすけ)

鎌倉・南北朝時代の武将。新田義貞の実弟。 朝氏の子。新田荘脇屋(群馬県太田市)に住み、 脇屋次郎と称す。右衛門佐、刑部卿。元弘3/正慶2(1333)年、兄義貞と共に鎌倉の北条氏を攻め、鎌倉幕府を倒す。その功により、建武政府から武者所、寄人、越前守護に任ぜられた。
35年(建武2)12月、足利尊氏が建武政府に反するや、義貞とともに足柄山で足利軍と戦う。 箱根・竹ノ下の合戦で敗れ、京都へ敗走した。
翌36年(延元1/建武3)5月、鎮西より東上する足利軍を兵庫(神戸市兵庫区)に防がん
としたが失敗。同年10月、恒良親王、尊良親王を奉じて、義貞とともに北陸に向かい、越前金ヶ崎城(敦賀市)に入った。
38年(延元3/暦応1)7月、義貞が戦死したのちも越前各地の南軍を率いて奮戦した。美濃、尾張に転戦ののち、一時吉野に帰り、刑部卿に任ぜられた。
40年(興国1/暦応3)伊予に赴き、国司四条有資(しじょうありすけ)を助けて北軍と戦い勢力を振るったが、42年(興国3/康永1)5月、 伊予国府にて病死。 (42歳)墓は愛媛県今治市 国分にある。

弐番山車

猪八戒

大門区
猪八戒(ちょはっかい)

3年周期で廻ってくる山車当番。42年前に当時の大門協会が自主制作を始めてから15基目の山車人形となります。毎回、大門協会(青年会)、婦人会が中心となる有志の集まりで制作奉納してきました。
今年の山車人形は、「猪八戒」です。あまり今までに題材にされたことが少ない山車人形への挑戦になります。最遊記では脇役ですが、どのように主人公のような山車人形に表現していくのかが悩みどころでした。いかにも強そうで逞しい図体、ただの豚には見えない貫録を目指して制作しました。
また大門区は、拡声器を使用しない、昔ながらの山車巡行を行っています。練習を重ねた囃子方の子どもたちと、祭り大好き大門区が一丸となり、三国祭を盛り上げていきます。

参番山車

今川義元と毛利新介

三国祭保存振興会
桶狭間の戦い「今川義元と毛利新介」

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく坂井市の三国祭として継承していく活動を行っています。
尾張の小大名だった織田信長が、その名を天下に初めて轟かせた「桶狭間の戦い」。駿河・遠江・三河の太守であった今川義元が討ち取られた、戦国の大転換点となった戦です。
今年の山車は、この戦において信長の精鋭部隊である馬廻に選ばれた毛利新介が、みごと今川義元の首を討ち取る場面を表しました。
今年はコロナ終息を願い、神輿と共に粛々と 巡行したいと思います。

四番山車

山田 武甫

上ハ町区
山田 武甫(やまだ たけとし)

熊本藩出身で、横井小楠(春嶽に請われ福井藩政治顧問、明治新政府参与)の高弟の一人と言われ、明治8年、内務省から敦賀県権令(現福井県知事)に着任しました。
三國港は広大な流域を持つ九頭竜川の河口ですので、川底の土砂堆積により幾度も機能不全に陥り、それが最も悲惨な状況の時でした。
それまでも浚渫(土砂排斥)の為、懸命な方策が取られてきましたが、突堤の建設という画期的な方法への道を開き、完成に繋げたのです。在籍は一年半でしたが、内田家、森田家などの豪商や港民への示唆、国家機関との交渉、エッセル、デ・レーケの招聘など、山田でなかれば、成しえなかったと考えられます。
永正寺に足跡を残す師の小楠からも、三國の重要性と状況を伝授されていた事でしょう。 突堤完成以来140年、この町が存在する礎である港の機能は盤石です。大いなる恩人を、山車にて顕彰させて頂きます。

五番山車

源 義経

滝谷区
源 義経(みなもとの よしつね)
山車展示のみ

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で鞍馬寺に預けられるが、後に平泉に下り、奥州藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が治承・寿永の乱で平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、平氏との戦いでの独断専行により怒りを買い、全国に捕縛の命が伝わると、難を逃れて藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町で自刃した。

令和二年度 奉納山車

令和二年度奉納山車のご紹介です。

壱番山車

岩崎区
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)

現在の山車屋台は、明治30年に白木造りで作られたもので、今年で120年以上経過しています。また、水引幕は、昭和56年に丹後ちりめんの白生地に、当時京都在住の動物画の大家(特に猿の絵が得意)である今尾画伯が直筆したものです。
山車人形は、昭和56年に初めて区民の手で制作して以降、自主制作を続けています。
14作目の今年は「本多忠勝(本多平八郎忠勝)」です。徳川家康に仕え、徳川四天王のひとりで、家康と共に天下統一を成し遂げた人物です。忠勝の使用した愛槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれ、穂先に止まったとんぼを真っ二つにしたという逸話があり、柄の長さが6mあったとされています。また、戦には57回出陣して、かすり傷一つ負わず、「ただ勝つのみ」との願いで「忠勝」と名付けられた名前は、三国祭の一番山車にはうってつけの武将だと思い、祭りの先陣を切り進みます。

弐番山車

中元区
勧進帳(かんじんちょう)

中元区の屋台は、慶應3年(1867)に棟梁 西川安右ヱ門、塗師 井田一洞斎により、制作されたもので、幕末から明治初期の三国の工芸技術の特徴を示しています。屋台の塗りは高蒔絵や螺鈿細工が施され、初代一洞斎の技術の粋が伺われます。水引幕は、表地が白羅紗に、吉祥の図柄として鳳凰・龍・麒麟(阿形と吽形)・雌雄の蓑亀に3匹の子亀が金糸や銀糸の箔糸で、オランダ繍・駒繍・刺繍・わた肉を駆使して立体感を巧みに表現しています。また、水引幕の下部には金糸で青海波の文様が施されています。裏地は橙地唐花に龍丸鳳凰文様の金襽で、表地と袷仕立てにして、四方は茶地市松文様の銀襽による覆輪仕立てとなっています。
今回の奉納山車人形は、歌舞伎十八番で有名な「勧進帳」弁慶の飛び六方です。勧進帳は平成2年以来、30年ぶり2回目の奉納となります。
また、練習を重ねた6名の子供たちが元気あふれる掛け声と力強いバチさばきを披露しますので、ご声援お願いします。

参番山車

三国祭保存振興会

明智光秀(あけちみつひで)「敵は本能寺にあり」

三国祭保存振興会は、伝統ある三国祭を町民の手で守りながら、三国町だけでなく、坂井市全体の三国祭として継承していく活動を行っています。
明智光秀は、美濃(岐阜県)を追われた後、越前(福井県)の朝倉義景を頼って一乗谷に身を寄せ、坂井市長崎にある「称念寺」の門前に10年くらい住んでいたとされ、三国湊や雄島などにもゆかりのある武将です。
山車人形は「敵は本能寺にあり」 主君織田信長を自害させた馬上の明智光秀です。

四番山車

真砂区
太閤 豊臣秀吉(たいこう とよとみひでよし)

5年ぶりの山車当番区で、山車人形には戦国一の出世頭「太閤 豊臣秀吉」を選び、三国祭保存振興会山車の会に制作を依頼しました。秀吉はご承知のように農民から侍となり木下藤吉郎と改名、武功をあげ織田信長に仕えました。信長の本能寺での死後、明智光秀や柴田勝家との争いに勝ち一気に天下人まで上り詰めました。太閤殿下の勇ましい姿をじっくりとお楽しみください。
 みくに龍翔館発行の「三国の曳き山車まつり展」によると明治31年に真砂区として初めて奉納した山車人形が「木下藤吉郎 稲葉山に於いて」と記録されています。秀吉はいわば、区として122年ぶりの登場となります。
 屋台は大正10年井田一洞斎によって制作されたといわれ、四の部の10区が共有しています。今年も、囃子方とともに上真砂・下真砂区民一丸になって、山車巡行の思い出をつくろうと張り切っています。

五番山車

下錦区
風林火山 武田信玄(ふうりんかざん たけだしんげん)

当区8年ぶりに奉納する山車人形は、当区が44年前の昭和51年(1976)に奉納しました「川中島の戦 武田信玄・上杉謙信」の一人 戦国武将 甲斐の戦国大名 武田家第19代当主「武田 信玄」を一つ山車で奉納いたします。
武田信玄は、甲斐本国統一を達成し、隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる川中島の戦で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した武将です。
武田軍と上杉軍の強さは天下一であると噂されることとなった、川中島の戦。その一連の対決の中でも最大規模といわれている第四次合戦で、茶臼山に陣取る「武田 信玄」を再現させて頂きました。
下錦区内の山車巡行では、えちぜん鉄道の踏切を渡るところがありますが、山車人形には一工夫、二工夫と知恵を絞った工夫がされてあり、他の奉納山車では見られない仕掛けの見どころもありますので、是非ともご覧ください。

六番山車

松ケ下区
暫(しばらく)
松ケ下区の山車屋台は、慶応3年(1867年)三国の名工志摩鴻斉の作で、上部組物が紫檀で作られている。欄干部は黒檀で作られ、全体に均整のとれた山車屋台となっている。江戸後期から明治にかけて、三国湊を代表する松ケ下区の豪商たちが資金を出し合い作られた山車屋台である。昭和43年7月20日、三国町文化財に指定された。
150年もの年月が経って編み糸が劣化したため、水引幕を当時のまま復元した。今年が初の水引のお披露目巡行になる。
本年の人形は、歌舞伎より「暫(しばらく)」を奉納する。